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出てきてサイレントマジョリティ
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極論のもつ力は、そのシンプルさに起因する

最近あった、「吉野家シャブ漬け」事件についてどう思う?「日経新聞の月曜日のたわわ」問題については?もっと最近では「AV新法」について。女性の権利関係の話ばっかりになっちゃったけど、きっと今それだけ関心が高まっているから目についているのかな。自分も社会も。

僕はテレビを見ていないので、これらの問題について主にTwitterを通して見ている。個々の問題についての私見は割愛するけれど、全体を通して「他人の権利だったり自由を侵害するのは良くないよなあ」と思っている。

できるだけ多くの人の意見を得ようと思ってTwitterでいろんな人のツイートを見ていると、「極論」に多くの関心が集まっているのがわかる。関心の集まりは、リツイート数やいいねの数で判断している。

極論というのはつまり、吉野家の件で言えば「吉野家を解体すべき」だったり、「発言をした人を速攻クビにすべき」だったり、その意見に至るまでのプロセスを全部省いて、『シンプルで簡潔な極端の意見』のことを指している。なので、その意見に至るまでのプロセスが 含まれているもの(ex.この役員は過去にも同様の事件を起こしていて、処分に対して過度な免責が働いていて、この事件が社会に与えたインパクトの大きさを考えると、など。これも十分でないかもしれないけど)は除外している。

極論はシンプルで簡潔なので、より多くの人の同意を集めやすい。なぜならその過程で、同意の振り分けを行わないからだ。

例を出すと、「お米はもちもちしているから好きだ」という意見と、「お米が好きだ」という意見はどちらが同意を得やすいだろう。もちもちしているお米ではなくパラパラのお米が好きな人は、前者には同意できないけど後者の意見には同意するだろう。この場合、後者は極論だ。

こうした極論の性質と、関心を集めた(同意を集めた)意見が重視されるSNSの性質によって、今のSNSは多様な意見が互いに反発しあってしまい、社会的分断を広げる温床になってしまっているように思う。

本当はそのプロセスの中で同意できる箇所があるかもしれない人同士も、その結論の差異によって、結論だけが表面化する環境のせいで、対立してしまっているのではないだろうか?あるいはそれを見ている僕のような傍観者でさえも、その流れに影響されて分断させられてしまっているのではないだろうか?

極論は、その力を存分に振るう

意見の強さは、「それがどれだけ他の人にインパクトを与えうるか」だと思っている。先程述べた「どれだけ同意を得やすいか」の視点でみると、極論の意見が持つ強さは、そうではない意見よりも強いといえる。意見そのものの持つ価値は、その意見を持っている個人を尊重しようという意志の下で、全て平等であるはずにも関わらず。

例えばここに20人の人間がいるとする。「あなたはこの法律を変えるべきだと思いますか?」という質問があり、選択肢が5つある。1-とてもそう思う、2-少しそう思う、3-どちらとも言えない、4-あまりそう思わない、5-まったくそう思わない。20人のうちの10人はその法律を変えるべきだと思い、1番を選んだ。それ以外の10人はその法律を変える必要はないと思っているが、変えたいと思う人の理屈も分かるので、4番を選んだ。

この時、20人の意見を聞いた外側の人間は、この状況をどう捉えるだろうか?実態として、賛成と反対の人間が10人ずついると分かるだろう。しかしその”強さ”を考えたとき、全体の状況として、賛成の勢力の方が大きく見えないだろうか。彼らの意見の持つ価値は等しく捉えられるべきである。なぜなら皆、この場を構成する等しい個人だからだ。しかしその意見の”強さ”の差のせいで、社会全体を見るときはその認知にバイアスがかかり、それぞれの意見の持つ価値に差が生じてしまう。この場合でいえば、賛成も反対も10人ずつであるが、賛成と”強く”思っている人の方が多いせいで、社会全体として賛成の気運の方が高く感じられる。

さて、先ほどは賛成と反対の人数を同じに設定したが、この人数が違う場合はどうなるのか。1000人の人間がいて、200人が1を、残りの800人が4を選んだ場合である。このとき社会が進む正しい方向として、反対の方に舵がきられるべきだと思う。なぜなら、より多くの人々にとって適切だと思える姿の形成に向かうからだ。

しかし現代では(特にSNSなどのネット環境においては)、800人はそれほど強く意見を発信しない。いわゆるサイレントマジョリティである。その結果、200人の意見の方が、社会を構成する人々の大勢であるように”見える”。社会の姿が誤認されてしまうのだ。

これは、その社会を構成する多数派の人間にとって、生きづらい世の中を構築してしまうことにつながる。

自分の生きている社会を、より生きやすくしていくために意見を主張していくことは大切である。しかし現代では、主張の弱い意見を拾い上げることに限界がある。それが多数派のものだった場合、社会の姿はゆがむ。これは本当に看過してよいことなのだろうか。

たとえば、ひろゆきは立憲民主党の議員による社会の姿の誤認を、「マイノリティの罠」と表している。

ひろゆき、立憲民主党を「永遠に野党」と批判…お気に入りのディスり言葉は「マイノリティの罠」(SmartFLASH) – Yahoo!ニュース

自民党に対する対抗勢力としての立憲民主党、つまりそこに集まる支持は”マジョリティ”から支持されている自民党と相反する思想を持つ、”マイノリティ”側の人々からのものである。それらの勢力からの支持を社会におけるマイノリティの声として処理し、政策に反映していくのなら問題はないが、これをマジョリティの声であると誤認してしまうと、それを反映した政策や発言は世の中の多くの人間に受け入れられないものになってしまう。

生きやすい社会づくりのために(誰にとって?)

ここからは、こうした極論の性質を考えたうえで、より良い社会(より多くの人にとって生きやすい社会)を形成するにはどうしたらいいか、について思ったことや課題を箇条書きしていく。

・マイノリティの声は、マイノリティの声として受け止められ、尊重されるべきである。これを適切に行わないと、どちらの層にとっても好ましくない結果につながってしまう(性的マイノリティの例など)。しかし極論の性質から、静かな多数派(サイレントマジョリティ)の姿は見えづらい。これらの声をきちんと表面化し、正しく認識することができるツールが必要である。

→現行の選挙制度はその一端を担っていると思う。個々の人間が持つ意見を、その大小に関わらず同じ1票として計測することができる。(だからこそ、その根底が揺らぐ1票の格差は問題なのである。)しかし選挙や政治に対する関心が弱いと、選挙に行くことがなく、小さくは持っているであろう意見も届かなくなる。現代では、彼らがサイレントマジョリティである。政治的関心が低い国家的多数派の声を、どれだけ拾うことを可能にできるかが、課題である。

→選挙のデジタル化によって、投票にかかる労力を減らすことが可能である。これによりサイレントマジョリティの声を拾うことができるのではないか。しかしここにも問題がある。インターネットインフラが通っていない場所の人の意見が拾うことができなくなってしまう。またデジタル機器に慣れていない人々は、選挙にかけるコストが増えてしまうかもしれない。日本で選挙のデジタル化が進まない原因はここにあるのだろうか?(少子高齢化、議員にも高齢が多い)。台湾では全土にインターネットインフラを張り巡らせることによって、デジタル化に成功している。

・その意見の持つ説得力は、補足情報をより適切により多く用いることで増すものだと思う。きちんと裏付けをとっているものや、より論理的に考え抜かれたものの方が、大きな関心を寄せるべきである。しかし極論の性質はそれに矛盾する。どの点で矛盾し、どの点で矛盾しないのかを精査する必要がある。そこに解決策が存在していると思う。

・極論が影響力を持つことで、社会は極論であふれているように見え、目にできる意見はすべて極論であるという誤解を生む。このような社会では、意見を述べる事自体にリスクが生じてしまう。極論だと思われ、その反対の層から批判されたくないからだ。これは、サイレントマジョリティの勢力を拡大させてしまうことにつながる。

・極論の持つ社会誤認リスクは、社会を運営する際の余分なコストにつながりうる。社会的に受け入れられると思って進めていたプロジェクトが、その実そうではなく、多くの人に受け入れられないという結果になってしまった場合、それまで投入されたリソースが無駄になってしまう。プロジェクトはそれを求めている人の元へ、適切な方向に進められるべきである。そのためには社会の姿を適切に認識することが必要である。

明日の社会をより多くの人にとって生きやすくするために、出来ることはなんだ?

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