主観視と客観視
就活では、自分を客観視しないといけないらしい。周りの友達はたいていそのお題に苦しんでいた。客観的に自分を見つめなおすという作業は、多かれ少なかれ痛みを伴うもので、それによって人は成長していくのだと思う。
僕はまだ就職をしない人間なので、就活に伴う客観視キャンペーンには参加していない。でも何か自分の主張を行っているときに、その行動を客観視してみなさいと言われたことはある。
そう言われた人間はどういった思考をするだろうか?
多分、「自分以外のほかの人から見たらどう見えているだろう?どう感じられているだろう?」という風に考えると思う。そのあと、「自分のこういった面は、他人からはこう見られているかもしれないから、この点を改善しよう」というような結論になるだろう。
つまり客観視するというのは、【他者からの目線で物事を考えてみる/自分の視点を除いて考えてみること】といえると思う。一般的に、社会で使われる個人の客観視のイメージってこういうものじゃないだろうか。
そもそも、主観的 / 客観的ってどういう意味なんだろう。これらの意味は辞典にはこう書いてある。
・主観的
1 表象・判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま。⇔客観的。
2 自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま。⇔客観的。
・客観的
1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。⇔主観的。
2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。⇔主観的。
(デジタル大辞典より)
主観的の方は、理解しやすいと思う。客観的の方はどうだろう?先ほどは「他者からの目線で」と表したけれど、辞典では「主観または主体を離れて独立に存在するさま」・「特定の立場にとらわれず」という表現になっている。これはおんなじ意味?ちょっと違うかもしれない。でも特定の立場にとらわれないってことは、どこかの誰かを用意してその立場から考える、ってことで、まあ似た意味と捉えていいっぽい。
うんそうだ、やっぱり客観視っていうのは、自分のことは除いて考えてみるってことなんだ。
誰が?
客観視って、誰がしているんだろう。自分じゃないか?自分が、自分のものの見方・感じ方を除いて考えることなんてできるのか?自分以外の第三者の視点を想像してみたって、自分が考えている以上、それは自分の視点から脱しているとは言えないのではないだろうか?
客観視って、本当に客観視なのだろうか?
例えば、ここに僕とAさんがいて、今Aさんと握手をしようとしたら断られてしまった。僕は一瞬驚いて、断られたことに不満をもった。でもこれは、何か事情があったのかもしれないと思って考えてみた。
そうだ、Aさんはきっと手が汚れていて、握手をすると僕の手を汚してしまうかもしれないから、握手を断ったのかもしれない。さっき何か作業をしていたみたいだから、その時に汚れてしまったのかも。それにしても今のこの状況を客観的に見たら、Aさんは黙って僕の握手を断っただけだ。周りの人にはAさんが失礼なように見えてしまうよな、一言でも言ってくれればよかったのに。自分のことを客観視できていないな。でも僕は落ち着いて考えることができて、Aさんに無駄にイラつかずに済んだぞ!大人になれた気がするな!
僕は大人で、客観視したつもりだった。でも、その後周りの人に、「人にいきなり握手を求めるのは、無礼だよ」と言われてしまった。もしかして、客観視できていないのは自分の方だったのか???
どうだろう、僕は本当に客観視できていなかったのだろうか?例えば今このブログを読んでいる第三者のあなたはどう感じただろうか?
僕は確かに客観視したはずだ。自分とAさんの様子が周りからどう見えているのかを想像して、握手を断るのは無礼であるはずだから、Aさんのことを心配した。そしてAさんには何かきっと事情があったのだろうと推察したのだ。これは主観的だったか?いや、主観のまま行動したなら、きっと握手を断られたことに怒ってAさんの事情など考えもしなかっただろう。
つまり僕が言いたいのは、純粋な客観視などできないということだ。自分が考える以上、そこに自分の視点が入り込むことを避けられない。
だから僕たちが普段、客観的に考えようと思って行っていることは、【主観的客観視】と言えないだろうか。
この言葉すごく単純すぎて、赤文字にするほどのこと?って思うかもしれないんだけど、ネットで調べても出てこなかったんだよね。最初に客観視について考え始めてこの言葉を思いついて、いや絶対この世に存在するから誰かの記事ないかなって探してもなくて、、。
なので誰が何と言おうと、僕がこの言葉を世に出した最初の人間だということをここに記しておく。不満がある人間はヤマ電方式で、この記事交信より早い日付の記事を持ってきたら認めましょう。
とおふざけはここまでにして、主観的客観視という言葉でさっきの状況を考えると、納得できる。主観でもないし客観でもない。さっきの考え方は主観的視点の入った客観視なんだ。
この言葉を軸にすると、つぎの4単語が生まれてくる。主観的主観視、主観的客観視、客観的主観視、客観的客観視。これらを分類して、体系的につなげていけたら面白い。それがこの文章を書いているモチベーションになってる。
あとは、今の社会について少し思うところがある。
自分の思想で選んだ他人の意見や、著名な人間の発した客観性のありそうな論説を、いかにも客観視できているような口ぶりで振りかざすアバターが、インターネットの世界でよく目につく。多分共感してくれる人は多いんじゃないかな。それで傷ついたり、傷つけられずともそれを見て悩んでいる人も多いと思う。それは現実の社会でも同じで、僕もあなたも傷つけられる側、そして傷つける側の存在として例外じゃない。
そんななかで、客観的なものなんてない、これは主観的客観だ、ということをみんなが考えられるようになれば、社会はもっと平和になるんじゃないだろうか。
そんなわけで、僕はこの考えをもっと広げて発展させていきたい。とりあえず今回はここまでにします。
ここまで読んでくれて少しでも面白そうと思ったら、一緒に考えてみよう!僕一人の考えじゃ、それこそ主観のみになっちゃうからね。コメントお待ちしています。
面白く読みませていただきました。
ところで、「客観」について考える中で、「客観」がその実、「主観的客観」なのではないかと考えると、論理的には「客観的客観」および「客観的主観」は導出不可能なのではないでしょうか。
なぜなら「客観=主観的」との等式をあなたが導いてしまった以上、たとえば「客観的客観」は「主観的客観的客観」となりますし、もっといえば、「主観的主観的主観的…」と無間後退します。
あえて、「客観的客観」などというものがあるとするなら、もはや「神」のような超越論的な審級を用意せねばなりませんが、あなたはこの問題についてどうお考えでしょうか。
改めてブログにしてほしいと思いました。
すぎや さん
コメントありがとうございます。ご指摘の点についてお返事いたします。
1点目の繰り返しの件についてですが、ここで述べているのは「私たちがふだん客観視だと思っているもの」が「主観的客観視」と呼べるのではないか、ということです。したがって、客観視イコール主観的客観視ではなく、客観視という大枠の中にはいくつもの種類があり、そのうちの一つが主観的客観視であるということになります。
2点目の客観的客観は神とも呼べるのではないかという点ですが、これはそう述べることも可能だと考えています。これについてはまた続きで書きたいと思っています。